人間という生き物について、(抜粋記事)

大小差異なく、近くとも遠くとも、悪ととられるような位置であっても

世界中全ての人の心から根強く、暗い感情がほんの少しずつでも緩和され続けますよう、

私達も同じ1人間、1個人として、生ある間

一生懸命心の底より願い、できることから努力し続けていきます。


テロは許せない行為であるのは当然として、ただしそこに暮らしている人たちの日常の投影でもあります。理由無く行われる殺人、犯罪とは異なり、テロは行う側も命をかけて実行するものであり、そのバックグラウンドには深い悲しみと、テロリストなりの戦う理由があります。その嘆きと生きてきたことの証明を行うために、人を殺す目的で組織化し、殺害計画を立て、準備してテロ行為に臨み、死んでいくのです。

許せないテロ行為によって、犠牲となり命を落とした人たちに対して、祈るのは尊い行為だと思います。私も、フランス・パリで起きたテロによって、亡くなった人たちや、息子や娘、愛する夫や妻、あるいは肉親を失った家族の慟哭にも深い同情を寄せざるを得ません。

加えて、この国際社会には同じように、パリで起きた惨劇と同様のものが、数十、数百と繰り返し起き、人々の命や大事な家族を奪っていきます。もちろん、多くの日本人にとってフランス、パリの人々は身近に感じることは多いのでしょう。その一方で、内戦や内乱が常態化し、平凡に暮らす人々が常に危機に晒されている地域はたくさんあります。パリでの事件の前々日にはレバノンのベイルートで200名以上の死傷者が出る連続爆破テロがあり、ロシアでは乗員乗客あわせて224名を乗せた民間飛行機がテロと見られる爆発が原因で墜落し全員死亡しました。シリアで、南スーダンで、各地で起きる死亡事故、襲撃は日常的なものであって、本来であればすべてに対して心を寄せ、祈らなければならないことばかりです。

「テロとの戦い」だと拳を振り上げるのは必要なことです。ただし、テロを行う人たちの抱える葛藤や悲しみ、屈辱、鬱憤といった、人間だからこそ抱える深く暗い感情にも光を当てていく必要はあるでしょう。「アラブ社会の出身者だから犯罪者」ということではなく、彼らのことをもっと良く知り、目的を考え、どうすれば日本人として、あるいは日本政府の、国際社会の一員として問題解決に資することができるのか、考えるべきです。アラブに行って状況を知りにいけとか、義勇軍や治安要員になれということではなくて、テロの犠牲になった人たちに祈ると同時に、決死にテロを行う決断を下した人たちを知る努力を払うべきだと思うのです。

折りしも複数の現地報道では、パリでの一連の爆破テロで、爆弾を身に巻き、自殺していったテロリストを「カミカゼ」と表現しています。

これ、70年前の日本人のことではないですか。

国家や社会や民族が追い詰められ、精神的に存亡の危機にあると認識した人々が、その活路を見出すために己を武器にして少しでも敵に「一矢報いる」と考える思考は、歴史を通じて日本人自らが体験してきたことではないかと思うのです。イスラーム社会の人たちの苦悩の末の自爆テロが、アメリカ人やフランス人には理解できなくとも日本人には何となく空気として分かるというのは、こういうところにあるのではないかと思います。

また、日本人は神風は吹かなかったことも知っているんですよね。

ガラパゴスでまったく構わないから、イスラーム社会の人たちのことも知りつつ、不幸な出来事で命を落としたすべての人の安らかな旅立ちを祈ることが、日本人としてのフェアではないかと感じます。

この問題を考え始めると、どうしても人間社会が抱える深い業のようなものを考えてしまうのですが、どうか平常心で起きたことを受け止めて考えて見ていただければと思います。

 

<11月16日 21時17分 山本一郎氏の最近の記事

仏パリで犠牲者120名以上に祈りを寄せる日本人、レバノン、ロシアなどにも祈ってあげてください  より引用>


このような出来事の数々で、近いお人と突然のお別れを迎えられた皆様個々の痛み心情は、とても計り知れるものではありませんが、

故人が望まないような暗い淵で生き続けられることから少しずつでも脱却の道が届けられますよう、日々、祈り申し上げます。